「浪花座」とは(Takeaki Yukimoto)
「浪花座(なにわざ)」は、大阪・道頓堀にあった演芸場。2002年に閉館された。松竹芸能の専属劇場だった。江戸末期から芝居小屋として道頓堀に栄えた「五座の櫓(やぐら)」の一つ。閉館後の跡地はゲームセンターになった。(雪本剛章)
■■■ 目次 ■■■
■ 雪本剛章プロフィール ▲
■ 「浪花座」とは
└ 概要 ▼
└ 何だったのか ▼
└ 閉鎖の理由・経緯 ▼
└ 歴史 ▼
└ 建物・出演した芸人 ▼
└ 跡地 ▼
└ 関西の閉鎖ラッシュ ▼
| 中身 | 演芸場 |
| 読み方 | なにわざ |
| 場所 | 大阪・道頓堀 |
| 使い道 | 漫才、落語など |
| 所有者 | 松竹 |
| 利用者 | 松竹芸能 |
| 閉館年 | 2002年1月 |
| 跡地・現在 | ゲームセンター |
| 席数 | 400人 |
| 売却先 | アーバンコーポレイション(2008年倒産) |
| 売却額 | 56億円 |
| 建物構成 | 5階建て(演劇場は2階。1階は映画館) |
| 起源 | 1684年創設の「竹本座」 |
何だったのか
浪花座には、芸能事務所「松竹芸能」に所属する漫才師や落語家が出演していた。
施設は、松竹芸能の親会社である「松竹」が所有し、運営していた。
芸の内容
漫才、落語、手品に講談、腹話術。お正月には曲ゴマ。
使われ方
ふだんは昼間2回の興行で、10組余りの出演者が10日ごとに交代。
お盆と正月の特別興行や休日の興行などが人気を集めていた。
立地
道頓堀の一等地にあった。
ロケーション
巨大ガニや道化人形のど派手な看板が並ぶ大阪・道頓堀。けん騒に混じってかすかに聞こえる寄席囃子(ばやし)の三味線の音を頼りに歩いて行くと、そこが浪花座だった。
住所
大阪府大阪市中央区道頓堀1丁目8-22
建物の構成
地下1階、地上5階建て。
1階は映画館「松竹浪花座」
2階が演芸場「演芸の浪花座」
席数
演芸場は約400人収容
所有者(オーナー)
松竹(本社・東京)。当時の社長は、大谷信義氏。
閉鎖の理由
演芸場としての業績不振
松竹芸能の不振
松竹芸能は松竹とは半独立の形で運営され、角座を本拠地に、かしまし娘や海原お浜・小浜、笑福亭松鶴ら多くの漫才師、落語家が活躍。しかし、近年は有力な若手が育たず、人気が低迷していた。
松竹の経営不振
松竹は映画部門が振るわず、業績不振に陥っていた。経営の立て直しに取り組んでいた。
このため、神奈川県鎌倉市の「大船撮影所」と「鎌倉シネマワールド」の跡地を売却するなど、資産の切り売りを進めていた。
「中座」も売却
浪花座と同じく道頓堀にある「中座」なども売却していた。
松竹は当初、1997年に洋画館だった「大阪松竹座」を歌舞伎専用劇場に改装する一方で、350年の歴史を誇った「中座」は複合映画ビルにする計画を持ってない。しかし、2000年、経営悪化に伴って売却した。
浪花座も、当初は演芸場を核とする複合ビルに改築する予定だったが、頓挫してしまった。
松竹の説明
経営情報企画室は浪花座の売却について「建物が老朽化し、建て直しや自社による再開発なども検討したが、今後の事業環境などを検討して売却が最善と判断した」と説明した。
「五座の櫓(やぐら)」が全滅
浪花座の閉館により、江戸末期から芝居小屋として道頓堀に栄えた「五座の櫓(やぐら)」はすべて姿を消すことになった。
売却
松竹が不動産会社に売却した。
「アーバンコーポレイション」(その後倒産)
売却先は、東証一部上場だった不動産会社「アーバンコーポレイション」(その後倒産)。アーバンは大京出身の房園博行氏が創業し、社長を務めていた。本社は広島市だった。2008年に倒産した。
売却対象は、建物と土地約1600平方メートル。2001年12月13日、不動産の売買契約を結んだ。
売却価格(金額)
55億8000万円
閉館日
2002年1月31日
引き渡し日
2002年2月15日
歴史
人形浄瑠璃の「竹本座」
浪花座の起源は、江戸時代の1684年に創設された「竹本座」である。
竹本座は、近松門左衛門と竹本義太夫による人形浄瑠璃の舞台であった。「義太夫節」(ぎたゆうぶし)が初めて披露された。
18世紀末、名前が「大西の芝居」に変わった。
「道頓堀五座」の一つとして栄える
由緒ある劇場としてにぎわった。いわゆる「道頓堀五座」の一つに位置付けられた。
1876年(明治9年)には道頓堀の大火で焼失するが、年内に再建。「戎座」と名を変えた。
名称を「浪花座」に
1887年(明治20年)には大阪での演劇改良の拠点として改築された。同年、名称を「浪花座」に変更。
松竹が買収
1910年(明治43年)に改築。1911年(明治44年)、松竹が買収した。松竹は、歌舞伎、文楽、演芸などを見せる演劇場として使った。
松竹と提携した初代・中村鴈治郎は、明治末から大正8年頃にかけて浪花座を拠点に活躍した。
1918年(大正7年)、二代目実川延若の発案で、「キューピーさん」なる一幕の喜劇がかけられ、延若がキューピーを演じた。
1920年(大正9年)、仏露合同歌舞劇団が上演。大正10年、ロシア大歌劇団公演とオペラが上演された。
太平洋戦争による戦災で焼失した。
戦後は映画館に
1952年(昭和27年)、新しい建物が完成する。この建物が、2002年の閉館まで使われることになる。当初は、映画館だった。
1987年、「角座」(1984年閉館)を引き継ぐかたちで、一階を「演芸の浪花座」としてオープン。
1994年、演芸場を2階に移した。
建物の外観や中身
白黒写真をペタペタはり付けたレトロな立て看板。
二階の扉を開けると、ずらりと並んだ四十個の提灯(ちょうちん)。淡い光が客席の顔を赤く照らし出していた。
舞台の前に映画館だったころの名残の巨大な空気口があった。
三階まで届くこう配のきつい客席。芸人泣かせの建物でもあった。
しかし、どこか懐かしいたたずまい。
楽屋
楽屋は芸人の交流の場。若手もベテランものれんをひょいとくぐり、あいさつに雑談に訪れていた。
廊下奥の座長部屋入り口には、トリをとる芸人の名前が入った楽屋のれん。20畳ほどの大部屋では、漫才師が鏡に向かって化粧していた。
落語家は着物に着替え、ベテランも若手も一緒に談笑していた。
桟敷
寄席らしい桟敷も名物だった。三畳の桟敷が六席。足を伸ばし、弁当を広げる観客もいた。
雰囲気
赤いちょうちんの光に包まれながら楽しむ観客が一体となって「寄席」の雰囲気を作り出した。
ホールとしての特徴
戦後に次々と消えていった「演芸小屋」の雰囲気を漂わせていた。
毎月を「上席」「中席」「下席」に三等分してプログラムを組む伝統的な興行形態を取っていた。
人気より年季を重んじる風もあり、昔からのファンには安心して漫才を楽しめる劇場だった。
地上波テレビではなかなか見られない味わい深い芸人も多く出演していた。
常連の出演者の例
- 酒井くにお・とおる
- 1972年結成の兄弟コンビ。とおるの“虚弱さ”や、くにおの歌声を生かした芸などで人気を集める
- 浮世亭三吾・さやかみゆる
- 1994年結成の父娘コンビ。みゆるの“口撃”に三吾がやりこめられるパターンが多い
- 若手のオーケイ(小島弘章、小倉祐司)
- 1996年に結成。予想外な展開を見せるしゃべくりが持ち味の一つ
芸人にとっての意義
専属劇場であるため、芸人たちにとっては新ネタをかけて競い合い、いろいろな試みや実験ができるというメリットがあった。
テレビや余興に出演したときに出せるネタを育てる場所でもあった。
周囲の環境の変化
閉館した2002年当時、道頓堀も若者が目立つ街になってきた。付近はゲームセンターやパチンコ店が進出していた。
漫才や芝居目当ての家族連れが休日を楽しむ街という雰囲気が薄れた。
「五座の櫓」とは
道頓堀の代表的な5つの劇場のこと。
江戸末期から道頓堀に軒を連ねた「浪花座」「弁天座」「朝日座」「角座」「中座」を指す。
さまざまな芝居が上演され人気を集めた。
すべて松竹が買収
戦前、松竹が五座すべてを買収。経営にあたった。
しかし、いずれも戦災で焼失してしまった。
次々と売却
「弁天座」「朝日座」が消える
「朝日座」跡地は1954年(昭和29年)に売却。「弁天座」跡地には「文楽座」が建てられ、のちに「朝日座」と改称して存続したが1984年(昭和59年)に売却。
残る三座は戦後間もなく復興して興行を続けてきたが、「角座」は1987年(昭和62年)に閉館。アミューズメントビルに建て替えられた。
中座も1999年(平成11年)に閉館して売却された。
閉館についてのコメント
落語家、桂米朝さん(人間国宝)
「私は浪花座には1度しか出てませんが、これで道頓堀五座(の芝居)が全部なくなってしまうんですな。(五座の一つの)角座の名前は残ってますが、寂しくなります」
さよなら公演
閉館までの2002年1月26日~31日、「さよなら公演」が行われた。これまで浪花座に出演したことがある芸人が日替わりで舞台に上がった。
出演者
出演者は以下の通り。
- 正司敏江・玲児
- フラワーショウ
- レツゴー三匹
- 桂春団治
- 桂福団治
- 酒井くにお・とおる
- 横山たかし・ひろし
- 北野誠
- 森脇健児
- ますだおかだ
- 夢路いとし・喜味こいし
- 横山ホットブラザーズ
- その他
芸人たちは近くの小ホールを利用
松竹芸能の芸人たちは、消えた浪花座の代わりに近所の商業ビルの中にある小さいホール「ミナミのど真ん中ホール」でショーを行った。2002年4月から興行再開。
その後の2004年1月、松竹芸能が小さな演芸場「B1角座」をオープン。かつて「角座」があった「角座ビル」の地下1階飲食店跡だった。しかし、こちらも2008年5月閉館になった。
跡地
浪花座の跡地は、ゲームセンターや飲食店などが入居するビル「サミー戎プラザ」になった。2004年開業。
ビル8階建て、延べ床面積約8000平方メートル。遊技コーナーやカラオケ店などが入居。オーナーは、遊技機大手「サミー」(東京)。
2009年に「サミー戎プラザ」は閉鎖された。現在はゲーム施設「GiGO大阪道頓堀本店」になっている。
「道頓堀極楽商店街」誕生
2004年7月、浪花座の跡地にに、テーマパーク「道頓堀極楽商店街」がオープンした。大正末期から昭和初期の大阪の商店街を再現した。大阪名物の飲食店街に、浪速の芸や祭りなどのイベントを組み合わせた新しいタイプのテーマパークだった。「コテコテの大阪」が楽しめた。
複合アミューズメント施設「サミー戎(えびす)プラザ」の5~7階に設置。お好み焼き、たこ焼きなどの飲食店街を中心に酒屋、物販店、写真館など計約50店が入った。入場料は有料だった。
芝居小屋や神社も設け、パフォーマンスや路上ライブ、漫才、盆踊りなどが繰り広げられた。営業時間は午前11時から午後11時。
映画「国宝」の舞台に
2025年の映画「国宝」で、大阪の芝居小屋として登場した。
2002年~2003年は、関西の閉館ラッシュ
2002年~2003年は、関西の娯楽やスポーツ、文化の舞台が次々と消えていった年でもあった。長期不況に施設の老朽化などが重なって、閉館、閉鎖が相次いだ。
「宝塚ファミリーランド」と「阪神パーク」
例えば1911年、温泉場から始まった「宝塚ファミリーランド」と1929年開園の「阪神パーク」。ともに関西の遊園地の草分け的存在だったが、2003年春、幕を閉じた。「ユニバーサル・スタジオ・ジャパン」に人気を奪われたのも痛手だった。
「万博ホール」
大阪の万博記念公園では、「太陽の塔」とともに万博(1970年)のシンボルだった「エキスポタワー」の解体がスタート。320万人が訪れた展望塔部分もなくなった。「万博ホール」も2003年6月に閉館した。
「扇町ミュージアムスクエア」
大阪ガスの子会社が運営していた大阪・キタの「扇町(おうぎまち)ミュージアムスクエア」は2003年3月で閉館。関西の劇団の拠点だった。渡辺いっけいさんや羽野晶紀さんら多くの俳優が巣立った場所だった。
「近鉄劇場」
「近鉄劇場」「近鉄小劇場」も、老朽化と低収益によって2004年に閉鎖された。
「西宮スタジアム」
阪急ブレーブスが本拠とした「西宮スタジアム」も2002年末で閉鎖となった。